「スカイ・クロラ The Sky Crawlers」


スカイ・クロラ The Sky Crawlers」、観た。

公開当時、cmを観て気になるなーと思いながら特に能動的に観ることがなかった。それが、主人公の声優を加瀬さんがつとめているということで!こりゃ観ななとなった。
加瀬さん、私の日常のいろんなところに潜んでいておもしろい。

評価はいまいちでなかず飛ばずだったらしいというのは知ってたので途中で挫折するかな〜と思いながら観たが。まったく飽きずに最後まで観ることができた。というか、とても好きな映画の一つになった。

まず、鑑賞する前に考察ブログを先に読んだ。
邪道だと言われるとおもうんだけど、私は映画以外もなんでもネタバレされてから鑑賞するのが好きだ。この作品意味わかんなかったつまんなかったって人にも、これから観るけどとりあえずネタバレOKっていう人にもとてもおすすめ。

拝読した記事
映画『スカイクロラ』感想&考察、解説 『退屈』なことの偉大さ - 物語る亀



とりあえず観た感想から。

まずひとつ目は、映画らしい映画だなってこと。
台詞が圧倒的に少なくて、常に美しい景色が流れている。深く考えなくても目が楽しい。ナレーションもなく、モノローグ的なものもラストシーンのみで最小限なので、その画を観て物語が進むのを把握しないといけない。最近だと逆にめずらしくなってしまった、わかりにくいと批判されるような映画だな、という印象。
(よく、テレビ版エヴァ・旧劇は不親切だ、わかりにくいと言われてるけど、庵野作品より押井作品のほうがよっぽどわかりにくくないか?と思ったりした。庵野監督はまだ抽象的ではあるけどオブジェクトを沢山出すのに対して、押井監督はごちゃごちゃした画がないので、解釈にたる要素が少ない気がする)
映像の美しさに関しては本当に一級品なので、正直なんの意味もストーリーもなくてもこの美しさを堪能できるなら映画館行く価値あるんじゃないかと思う。
特にすごいなと思ったのは、光と影のコントラスト。光源がどこにあってそこから光が照らされて、陰になる部分ができるというのがひとつ一つの場面で常にハッキリしている。陰から人物から出てきて光が当たる瞬間とか、夜のレストランの看板の煌々とした光とか、かなり拘って描いてるんだなーと。美しかった。
飛行機での戦闘シーンや、海、雲、小物の細かさとかいろいろ凄い点はたくさんあったけど、やっぱり一番印象に残ったのはそこだった。

そして、序盤からかなりはっきりと思ったのが、カメラの存在を故意に浮かび上がらせる撮り方をするんだな、ということ。押井監督の有名な特徴らしいと後から調べて知ったんだけど、かなり好きな撮り方だ。
これ、押井監督は語り手をあくまでカメラだということをハッキリさせたいんだと捉えている。「スカイ・クロラ The Sky Crawlers」というテクストがあって、それを語る(映す)者がカメラ。だからカメラが登場人物の一人称に寄ることも少ない。意識して語り手をテクストの外側へ出しているんだなという印象をもった。(私は大学で文学研究を勉強してた身だからこういう言い方しかできないんだけど、映像においてこういうのってちゃんと用語があるんだろうか。)


ストーリーについて。
私が事前に読んだ考察ブログにもあるのだが、「スカイ・クロラ」では普遍的日常について描かれていることは間違いない。
永久に続いていく日常。飯を食い、眠り、セックスをする。そして、飛ぶ。
キルドレの「歳をとらない」「たとえガワが変わろうとも、記憶や人格を引き継いでいる」というのは、明確に"作品の中の登場人物"としての側面がある。サザエさんしかり、ドラえもんしかり。
「世界が刻一刻と変わっていくなかで、成長しない。何も変わらない。毎日同じことを繰り返し、過ごす。しかし使命として闘いに身を投じている。さらに、その存在そのものが、カタルシスを求める観客によって仕組まれたものである」
ということ。

スカイ・クロラ」のストーリー概要を聞いたら、「エンターテイメントとしての戦争」という部分にほとんどの人が嫌悪を抱くだろう。そんなことをして失わなくていい命を失う必要があるのか?と。そんなこと今すぐ止めるべきだと。なんなら、戦争をそんなふうに描くこと自体が不謹慎だと批判される。観ていない人は戦争という大きなテーマがストーリーの根幹にあると思うかもしれない。
でも、今、映画やドラマや漫画やアニメやあらゆるフィクション作品を楽しむ私たちも、「スカイ・クロラ」の一般市民となんら変わりないのだ。
退屈で、何も変化のない日常。平和を平和と思えなくなるほど麻痺した生活。そんな中のちょっとした刺激に、私たちもキルドレのように時の止まったキャラクターたちを使って非日常を消費している。
アニメでもゲームでも、日常とは程遠い闘いをキャラクターに強いることで、私たちはカタルシスを得ているのだから。

語り手となったカメラがとらえているのは、紛れもなくこのキャラクターたちの苦悩でもあるのだ。
私たちが非日常のエンターテイメントを求める限り、キルドレは常に存在している。その仕組みそのものを壊すことはできない。そもそも、「スカイ・クロラ」という映画が存在している時点で、不可能だ。


草薙は、作中で死んでいったキルドレに対して「可哀想なんかじゃない!同情なんかで、あいつを侮辱するな!」と叫ぶ。
結局、私たちは非日常を求めることをやめられないし、そんな私たちにできることは彼らの境遇を嘆くことではない。同情することではない。
私たちにできることは、非日常を求めることをやめることではなく、退屈な日常を放り出して、諦めないことだ。

物語の最後、函南は「エンターテイメントとしての戦争」の仕組みとして絶対に勝つことは出来ないティーチャーに突撃しながら、「いつも通る道でも、違うところを踏んで歩くことができる いつも通る道だからって、景色は同じじゃない」と言う。

函南の前身である栗田は永遠に続く生活に追い詰められて、すべてを諦めて、投げ出すために自分を殺させた。草薙もまた、停滞した日常から救われるために自分を殺すように求める。
でも、函南はそれを選ばない。どれだけ代わり映えがない生活でも、違う道を歩くことを選んだから。
繰り返し繰り返し変わらない毎日でも、それを投げ出して諦めないで、ほんの少しずつ変えていくことができる。目の前のことをこなしていくことで。
函南の機体が穴だらけになって、その穴を通り抜けた先にあるのは、また、何一つ変わらない日々だ。函南はまた別な体に移って生き続けるだけで、なにか日常に劇的な変化があるわけではない。諦めるなと言いながら、その結果はいつも絶望でしかない。それでも、それでも、やっぱり諦めちゃいけないんだよ。

押井監督が、今の若者たちに観てほしいと言ったわけがよくわかる。
アニメやソシャゲに夢中になってるオタクたちは、非日常である2次元の世界やカタルシスの象徴である"推し"に自分を捧げている。
自己を見つめるよりも、自分の生活のことよりも、家族や目の前の現実、無味無臭で退屈でそれでいて面倒くさいリアルよりも、非日常の全てを選んでいる。停滞した現実から目を塞いでいる。
でも、停滞してると思っているその景色は、一歩なにか別の場所を踏みしめることで1ミリだけ何か変わるかもしれない。現実は変わらなくても、自分の目で見えるものが少し違ってくるかもしれない。

劇的でもない、カタルシスが得られるわけでもないこの作品が若者に受けないのは仕方のないことなのかもしれない。でも、私はオタクにこそ観てほしいと思ったし、自分も、これからも何度も観かえそうと思う。












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加瀬さん。
正直、声優向いてないんじゃないかと思ってしまった(笑)深夜までやったって言ってたし………。押井監督はまじめで、役柄への執着心がすごいと褒めていたけど、スタッフは加瀬さんがやり直したいと申告するたびに涙目になっていたんじゃないかと推察する。まあ、その後声優やってないしそういうことなんだけど。
でも、函南に関しては、ハマり役だった。個人的な好き嫌いを差し引いてもよかったんじゃないかと思う。函南という人間は独特すぎる。子どもではあるけれど、人生の経験としては普通の大人と同じようにあって、記憶が曖昧で感情が希薄で……。そういう危うくてアンバランスな函南に、加瀬さんの少し高くて、抑揚のなくて、そして若干不安げな感じが(笑)ぴったりだった。
草薙役の菊池凛子さんも、まさに少女と女性を行ったり来たりしたような声音で、他の登場人物の安定した声と対比になっていた。2人ともなかなか感情をあらわにすることはないけど、その不安定だけど抑揚のない声音が、まさに2人の状況を表してるようなかんじがした。
いつも、加瀬さんを目当てに観ているはずなのに、観ている最中は加瀬さんのことが意識に上らない。それだけその登場人物として在る。今回も声だけではあったけどそれは変わらなくて、自然と函南として受け入れることができた。