赤と白とロイヤルブルー/今こそおとぎ話がほしい

 

 『赤と白とロイヤルブルー』、Amazon primeで公開された映画を観た。

  予告が始まってからずーっとずーっと楽しみにしていて、原作の小説すら映画の後にしようと待っているくらいかなり期待していたのだが、結果として失望することなく楽しめたので本当によかった。

久しぶりにこんな風にどきどきした気がする。

  展開としては犬猿の仲だった英国王室の次男ヘンリー王子と米国大統領の息子アレックスが恋に落ち、同性同士であることや互いの環境のしがらみを乗り越えて結ばれるという、ありがちなラブロマンスだ。

ただ、主人公二人を含めて登場人物がみな多種多様な人種、性的嗜好、個性の持ち主であるということ。政治や国のあり方についての眼差しは強いメッセージ性を持っていること。それらがうまく調和した結果、現代版ベタベタラブロマンスとして豊かなものに成立している。

  映画のほうは2時間の尺にまとめる都合もあったのか、重要な人物を何人も削り、展開も大幅に変わってしまった部分がある(特にアレックス周辺の選挙戦について)のでそこについての批判はちらほら見受けられた。

確かに社会的なメッセージとしては弱くなってしまっていたが、だからと言ってこの映画が駄作になったかと言えばそんなことはないと私は思ったな。原作よりずっと軽やかでカジュアルなラブコメディになった本作が本当にいとおしく感じた。

  ひと昔もふた昔も前だったら、男と女でやっただろう。ほら、ローマの休日みたいな。それこそシェイクスピアみたいな。教養がないから思いつかないが、悲恋でなくともあるだろう。ベタすぎてもう誰もやらないような壮大で、それでいてチャーミングで、夢見るようなおとぎ話が。それをもう一度、今の在り方で、同性同士でやったって良いんじゃないだろうか。

私はもううんざりなんだ。同性同士だからと悲嘆に暮れて刹那に溺れるだけの"エモーショナル主義"は、フィクションで積極的に見たくない。恋に落ちるなんてどんな人種だろうが性別だろうが立場だろうが、みんな馬鹿みたいに夢中になって浮かれすぎて目も当てられないような状態で恥ずかしすぎる言葉しか言えなくなる。そうやって浮かれていちゃいちゃして、すれ違って恋わずらいして、相手の一挙手一投足に見惚れてどろどろになるでしょう。

ラブロマンスにおける二人の間の障害が「同性同士だから」じゃなくて、単に人間同士が一緒にいるって難しいよねってただそれだけであってほしい。

本作では、それに近づいていくような輝きを感じた。アレックスとヘンリーの愛は、選挙戦に、そして英国王室にダメージを与えうるものではあったけれど、それは「同性同士だから」というよりは、二人の立場が「公人だから」生まれる障害として描かれている。

実際、シンプルに考えれば当たり前のことなのだ。性的嗜好も、愛する人もかけがえがない。でも、公人には代わりがいる(王室という設定上、議論が必要だけれど、作中ヘンリーは王室は不要であるという主張をしていたので、その理論を借りるとする)。

愛したのがお互いでなければ…でなくて、この立場でなければ…と悩む歯痒い状況に、二人は自分がゲイであることも愛する人アイデンティティ(性別が男性であること)も疑わないし、悩まないし、責めない。

それがどれだけ尊いことか。大切なことか。このラブコメディを心から笑って観られるのは、だからこそだと思うのだ。

願わくば二人の物語の続きをこのキャスティングで観させてもらいたいと思う。

 

 

以下、細かい感想。

 

・いやまず、主演の二人が魅力的すぎる。原作読んでも思うけど、本当にぴったりで、そら好きになるわな。

・敬遠の仲ではあるんだけどそれは互いに魅力的に感じすぎていたからって典型的だけどやっぱりいいよね。二人の嫌そうな笑顔が上手すぎて笑ってしまう。

・アレックスの米国人みとヘンリーの英国人みの典型感が面白すぎる。多分本国の人だともっと面白いんだろうな。大雑把でエネルギッシュでメキシコの血が入ったアレックスと、金髪白人で嫌味で神経質なヘンリー。

・メールするようになってからのシーン、いやもう好きじゃん?!?!ってなった。通話のボタンそっちがきってよのシーン、あれ大抵の恋人がやるやつだからね。無自覚でにやにやするアレックス。付き合う前のどっちつかずのいちゃいちゃっていいよね…。

・年越しパーティー、演出がちょっとなぁとは思ったけど、ヘンリーは最高だった。アウェイに戸惑いながらも気品を失えない。微妙にズレたノリも、アレックスが知らない女性といるときの捨てられた子犬みたいな目も……。

・あの盛り上がって時が止まったような演出もちょっとベタすぎてと思うけど、ベタすぎるくらいがちょうどよいのかも。

・木の下でのキスシーン、言葉にならないくらいに最高。すべてを持ってる金髪白人王子がこんな風に涙目になって、心が動かされないやついる?

・アレックスの自身の性嗜好への戸惑いはもう少し映画でも深掘りしてほしかったなぁ。

・ノーラの台詞、まじで全部それなすぎて深く頷いちゃう。原作でもここの台詞本当好き。「I don't know」「come on!!!」のところ、ふたりの気心の知れた友人感すごくて好き。

・晩餐会のシーンが全部良すぎて困る。アレックスがヘンリーに見惚れるの、ヘンリーに恋してるのが何より伝わる。

・レッドルームでの二人の全てを見逃しちゃいけない。

・キスの後、パーティーに戻るとき必死にすかした顔しながら心からの笑みが溢れちゃう二人本当に涙出るくらい愛おしいな。

・ヘンリーが冗談言うときに眉毛に力入れる表情とびっくりしたときのアレックスのあほづらが世界遺産

・全編通して、キスシーンベッドシーンを逸さずに官能的に描くところがあっぱれだなぁ。さすが洋画。美しい。

・激しく求め合ったあとのヘンリーが苦しい。常に張り詰めて、呼吸がずっと浅くて、目が潤んでる。上手いなぁ。それでもアレックスといるほんのひとときは口もとが綻んでて……。

・ポロと二人の逢瀬を重ねて描くの、原作でも本当にそんな感じなので正しいんだけどどうしても面白く感じてしまう。野生的でいいね。絶頂という感じ。

・「It's my life」「Prince Henry belongs to Britain」のところ、堪えながらもはっきりと言い切るのがヘンリーという人間を表していて良いシーン。良い演技。不安定で壊れそうで、でも弁えている。

・フランスの夜のシーン。本当に台詞も演技も映るものすべて良い。とても美しい。官能的だけど、決して下品ではない。セックスに夢を持たせるような描き方、おとぎ話で良いよなぁ。その後語り合うのも含めて。

・大統領母さん、いいなぁ。夢じゃんというのはその通りだけど、でも夢すぎない塩梅だと思う。

・アレックスが映画だと原作より苦悩や闘いが描かれないがちだったので、テキサスで政治に向き合っている様子が出ていたのは良い改変だった。メールでいちゃついてるのがわかるのもいいわ。

・ザハラにバレるシーン最高すぎる。ザハラって本当いい仕事してるよなぁ。殿下にブチギレなのまじでおもろくてそのときのヘンリーも見たことない顔してて好き。

・別荘でヘンリーが歌うのを見つめるアレックスの恋する表情がいい。ここでヘンリーが歌下手だったらいいのに、何やったって最高にかっこいいんだもんな。遠目から見る想い人は、近くで見るよりずっとずっと感傷的に思えるよね。

・宣材写真にもなってた、水着で寝そべる二人の美しさよ。深く求めてしまうアレックスは仕方ない、それだけお互い愛してるってもうわかってしまってたから。濡れた二人、アレックスにはヘンリーのあの表情が見えない構図になってるのが本当にね。

・ビー、本当にいてくれてよかった。「Do you love him?」「What difference would it make if I did?」良い。この話を美しい庭園でしているのが皮肉なんだよなぁ。

・アレックスの電話を無視するヘンリーがピアノを弾いてる。これを見て苦しくなって、またのちのシーンで胸が熱くなる。

・ここで海超えちゃうのがマジでアレックスすぎる。そしてそんなアレックスじゃないとヘンリーの恋人なんて無理だよな。

・ここでキレるヘンリーが辛くて良い。お互い苦しいシーンではあるんだけど、ヘンリーがアレックス相手なら感情を爆発できるんだというのが。残酷だけど「帰れ」って言われなきゃアレックスは納得できないし、ヘンリーも本心は求めてるんだもんな……。アレックス、本当に正しい対応をしたという感じ。

・博物館のシーン、よれよれのびちょびちょで、普段着で。それでもどれだけ拒絶してもあなたを愛することを諦めないと言ってくれた人と踊れる、なんて美しいんだろう。

・メールがバレる件も、レオが抹消されてしまったせいでこんな形になってしまったから納得はいかないよね。ただレオ出したら話がめちゃくちゃになっちゃうもんなぁ。

・アレックスのスピーチ、原作とはまったく違うんだけどこれは映画のスピーチが本当によかった。簡潔で、正しかった。シンプルに、二人が愛し合っていること。

・「He does this thing when he's worried」からの台詞、マジで一番好きまである。本当に好き……。そんなこと考えてる場合かよって緊急事態に、そんなとこ?って二人にしかわかんないような好きなところ思い出しちゃうの、恋すぎる。

・ヘンリーは「Baby」って呼ばれるのが好きって設定を原作で知ってからもう一度あの通話のシーン見て。お願い。

・「Hurry」「Please」と階段での抱擁を重ねるの本当に本当に素晴らしい。

・緊張をほぐそうとしているだけなんだけど、これからの二人の未来を予感もさせるようなピアノのシーンが本当に好きだ。二人が恋する瞳で互いを見ているのが好きだ。

・女王でなくなってしまったこととか、この話し合いの収束の仕方は全然納得いかなくて原作通りが良かったと思うけど、でもまぁ映画らしい演出とか尺考えると仕方ないのかなぁって感じ。陛下のいかにも英国貴族老人らしさは好きだけどね。

・テキサスの件もなぁ。出来過ぎ感はそうだけど、このおとぎ話の締めくくりにはそれくらいで良いのかもね。黄色のバラのネクタイよかった。

・アレックスとヘンリー、本当にぴったりの配役に、最高の芝居だった。二人の物語の続きが観たい。本当にただそれだけ……。

 

重力ピエロ 観た

 

2009年 「重力ピエロ」観た。

原作は伊坂幸太郎

学生時代、狂ったように本を読んでいて伊坂作品もほとんど読んでいたが、なぜかこの作品だけは読んでいなかった。映画を観てから、原作を読んだ。

映画は、原作ものとしても、単純に映画作品としても好きなものだった。とても。

原作とは異なる設定の部分が多数あるけれど、それも含めてよくまとまっているし、映画化した意味のある作品になっていると思えた。

一番最初に思ったのは、キャスティングが良かったことだ。正直、いろんな圧力を感じるキャスティングが多い邦画だけれど、この作品にはきちんとストーリーに沿った配役がなされていて、それが効果的に働いている。

美しい妻と、冴えない夫。その冴えない夫に似た、冴えない長男。冴えない男性陣に似ても似つかない美しい次男。そして、その美しい次男に似た、憎むべき犯罪者の男。この作品の根幹には容姿が深く関わっているし、その根幹に沿った容姿のキャスティングがされていて、矛盾がなかった。

長男・泉水役の加瀬さんご本人は整ったお顔立ちだと思うが、冴えない男の雰囲気を纏うのが異様に上手い。今回もそこらへんにいる凡庸で運動音痴な理系の冴えない男として弟のそばで霞む兄として完璧だった。

そしてなんと言っても、次男・春役の岡田将生さんの美しさたるや。父親と兄のことをゆうに越した高身長と、母親似と思われる色白に、彫刻のような造形のお顔。この作品の映像美は岡田将生によって創られていると言っても良い。それくらいに、この画を観ていたいなと思うシーンには必ず春がいた。

この似ても似つかない2人なんだけれど、交わす会話の近すぎず遠すぎず、砕けすぎずかしこまりすぎない距離感が絶妙に2人が兄弟であることを納得させてくれて、泉水と春が加瀬さんと岡田将生さんでよかったーと心の底から思ったりした。

(子ども時代の2人を演じた子役も、大人の2人とすごくよく似た役者さんを配役していたのも良かった。映像作品において容姿とストーリーの整合性って結構重要だと思う。)

 

映像作品として観ることができてよかったな、と思う点。まずは、「春が二階から落ちてきた」という印象的な原作の最初の一文の再現。あれを映像として観ることができた時点で、かなり最高だった。桜の花びらが舞う青空の一拍あと、舞う春。さらに続きの文章も連想できるし、なにより落ちてくる春の神秘性は言葉にできないものがある。あれが最初に流れたら一気に空気が変わって掴まれてしまう。綺麗な始まり方で、綺麗な終わり方だ。宣材ポスターあのしーんでよかったじゃんね?

また、春が自室に地図を貼っていることに気づくシーン。葛城の顔写真のコラージュや事件についての新聞記事をびっしりと壁一面に貼っているのを絵面として観ると、春の狂気性というか、長い時間かけて綿密に練った計画を遂行しているという実感が迫ってきて、かなり怖かった。口数が少ない春の、長年の苦しみの集積という感じがする。原作はわりとなんでも軽いタッチで書くというか、わざとシリアスにならないようにしてある感じがあるので映像として観ることで春の23年に少しでも触れられるのはよかった。

あと、一番に良かったシーンは、なんと言っても、燃え盛る炎のなかで泉水が居るのを見て、微笑んでバットを振る春。クライマックスだ。あそこは原作にもない描写。原作では泉水は腰が抜けてて直で見届けていない。それはそれで、泉水の覚悟のなさとかリアリティがあって良いとは思うんだけど、やっぱり映画のあのシーンは綺麗だった。最後の放火場所が犯行現場であり思い出の家っていうのは一連の放火事件としての整合性もあるし心情的な納得感もある。それまで迷いがなかった春がなかなかバットを振れなかったのに、泉水がいてくれた、というのを見た途端、安心したように、うれしげに、微笑んで振りかぶる様は美しかった。わざわざ大切なことをするときに泉水を呼ぶ春の心情が伝わる良いシーンだった。

序盤の絵面が地味で退屈だとか、伊坂作品特有の人物の会話がわざとらしく聞こえるし再現できていないとか、そういう意見も見たけれど個人的には感じなかった。のんびりした家族の団欒の中にずっと妙な緊張感があるのに加えて、泉水と春の会話は伊坂作品ならではの洒落た皮肉が散りばめられていて笑えた。特に春の大仰なガンジーの引用とか、春の現実離れした容姿と退屈そうな話し方がぴったりで全然違和感がなかった。泉水の弟優秀すぎ洒落皮肉も適度にだるそうでおもしろかった。

あと、主題歌がかなり良かった。切なすぎず、大仰すぎない。全編英詞で流れるのも、邪魔しなくてよかった。日常的でさりげなくはあるんだけど、やっぱり胸が締めつけられる。

 

あと、原作と映画では設定の違う部分について。映画から先に観た私でも内容が理解できないことは全くなかったし、ごちゃついた印象もまとまらないこともなくすっきりと楽しめた。逆に原作を読んだ後でも映画が原作の良さを消してるとはまったく感じなかったのも理想的だ。

泉水が大学院生だとか、連続放火事件の謎解きの仕方とか、探偵がモブになってるとか、ちょくちょく違う部分はあるけど許容範囲というか、2時間に収めるためには当たり前の短縮だよな、と思える範囲。

 

ただ、残念だと思ってしまう改変が2つあった。1つは母親の死因。原作では病死とされていて、どんな病気か、闘病中のことは書いていないんだけれど、はっきりと病死と書かれている。映画では事故死で、しかも警察が自殺の線も考えているといっており、どちらかが明言されていない。母親の死って、この家族において一番大きな意味を持っていて、そこに「自殺かもしれない」っていう要素を入れてしまうのは、家族3人のその後の心境がかなり変わってしまうと思う。そもそも、発端の事件の直接の被害者は母親で、でもその母が春を愛していて、産んだことを後悔していない、という前提があるうえでの家族3人だと思う。その中で母親が「自殺かもしれない」となってしまうと、その前提が崩れてしまうわけで、作品全体の重さというか、シリアスさの割合がかなり増えてしまうと思う。春は家族に愛されている。その前提は崩しちゃいけない。

2つ目は、泉水が遺伝子検査をやるタイミング。原作では、物語が始まった当初からすでに泉水は葛城を殺害する算段をたてていて、それと同時に遺伝子検査も進めている。その順序であれば、葛城を殺したい→本当に葛城は殺すべき加害者なのか?→遺伝子検査、という流れが理解できるし、そこで本当に加害者であったために、殺害計画はさらに具体性を持って進行していく。でも、映画の順序だと、ひょんなことから葛城が地元に戻ってきているのを知る→遺伝子検査を決行→葛城がゴミクズだと身を持って知る→殺害を計画する となる。そうなると、泉水は「春の父親を知りたい」という欲求に抗えずに遺伝子検査をしたことになる。それは泉水がなにより血にこだわっているという証左になってしまうし、「春はお父さんの息子だ」を、疑う泉水になってしまう。それは、原作の意図とはかけ離れている。

以上の2つだけ、改変によって原作と意図が変わってきてしまうと感じた点だった。ここが原作通りだったら文句なしだったなあ。

それでも、やっぱり映像化して正解だったという感想。観てよかった。アマプラでレンタルしたんだけどすぐ48時間すぎちゃってショックなのでまた借りようと思う。

 

作品の中身についての感想。

岡田将生さんが、春について結局よくわからないままだった、というようなことを言っていたんだけれど、それって本当にそうで、岡田将生さんはすごく誠実なんだろうなって思った。正直、そんな境遇に生まれた人の心情なんて身に迫ってわかるわけがない。自分ならまともではいられない。多分狂っているし、とっくのとうに精神科入院コースだし、それか犯罪非行まっしぐらだと思う。もし、岡田将生さんが知ったような口をきいてうすっぺらな春の苦悩についてべらべらしゃべるような人であったら、春のあの絶妙なバランスの危うさや神秘性はなかっただろうと思う。

これは、伊坂幸太郎の描き方の勝ちなんだ、つまりは。

この作品の主人公はあくまでも泉水で、原作も映画も泉水の視点から進んでいく。泉水も結局は当事者ではあるけれど、直接の被害者である母親の気持ちも、そして生まれてきた春の気持ちもわからない。推察するしかない。正直に言って、読者や観客が「わかった」気になれるのは、泉水までなんだと思う。泉水の苦悩や、泉水から見た家族。春や母親のことは想像しても共感はできないだろう。泉水を通して、きっと春にはこんな苦しみがあったのかもしれない、と推察するしかない。だからこそ、この作品はあくまでもずっと傍観者で、春に騙されて転がされる泉水の視点から描いた、泉水が主人公の物語なのだ。だから、春のことがわからないのは、当然といえば当然のことなのだと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

神さまになる

 

 

たとえばなにもかもを赦すこと。

受け入れること。認めること。包み込むこと。

 

それができるのが神さまだけならば、

私の夢は神さまになることだ。

 

でもそれは叶わない。

私は人間で、人間は憎むし、許せないし、受け入れられないし、怒るし、嫌う。

 

神さまになりたい。

すべてを愛する存在になりたい。

最近はそんなことばかり考えている。

 

 

 

 

 

ともにあゆむ

 

 

毎年、年末年始は急に憂鬱なきもちになってしまう。今年も何もできなかったとか、来年もこれが続くのか、とか。節目は自分自身を省みることが多いので憂鬱になってしまう。

 

自分の抑うつ寛解してからずいぶん経つが、抑うつの原因である家庭環境は良くなるどころか悪化の一途を辿っている。

ねむいのにねむるのがこわくて今、これを書いているんだけど、きっとこの苦しみは私が生まれ落ちてから死に朽ちるまでずっと抱いていなければならないものなんだろう、という諦念のようなものが浮かんできた。

 

人間は変わらないし、私も家族への感情を捨てることができない。現実は変わらないし生活は続いていく。

 

だからきっとこれからも苦しいままで 苦しみをどうすることもできない。

 

2021年はすべてを許そうと足掻いて、絶望するのではなく目の前のことから片付けていくことを自らに言い聞かせていた。

その対策はたぶん間違っていない。

絶望して何も手をつけなければさらに悪いことになる。この現実において底なんてあり得ない。沼のように、さらに下には地獄が待っている。だからこそ一つずつ目の前のことをこなして、なんとか生活をやっていく必要がある。

さらに落ちないようにするだけの、対処療法だとしても。

 

 

自分の力ではどうしようもないことばっかりだ。私がいくら苦しくたってどうでもいい。でも自分の大切な人が苦しんでいるのをそばで見続けることしかできない。どうすることもできずに、苦しむところを眺めていることしかできない。それはどんな罰より地獄のような痛みだ。

 

でもそれが私が生まれ落ちてから決まりきっていた世界で、逃れられない事実で、それを受け入れ抱えて死ぬまでやっていくしかない。

絶望して、自殺して逃げることも許されない。一つずつ、自分にできることだけをこなしていく。諦めるのではなく、やれることだけを。淡々と。粛々と。

 

続いていく生活。削られていく時間。

抱え続けていく痛み。

 

今年も、絶望することなく、やっていく。

 

 

生活

生活



「スカイ・クロラ The Sky Crawlers」


スカイ・クロラ The Sky Crawlers」、観た。

公開当時、cmを観て気になるなーと思いながら特に能動的に観ることがなかった。それが、主人公の声優を加瀬さんがつとめているということで!こりゃ観ななとなった。
加瀬さん、私の日常のいろんなところに潜んでいておもしろい。

評価はいまいちでなかず飛ばずだったらしいというのは知ってたので途中で挫折するかな〜と思いながら観たが。まったく飽きずに最後まで観ることができた。というか、とても好きな映画の一つになった。

まず、鑑賞する前に考察ブログを先に読んだ。
邪道だと言われるとおもうんだけど、私は映画以外もなんでもネタバレされてから鑑賞するのが好きだ。この作品意味わかんなかったつまんなかったって人にも、これから観るけどとりあえずネタバレOKっていう人にもとてもおすすめ。

拝読した記事
映画『スカイクロラ』感想&考察、解説 『退屈』なことの偉大さ - 物語る亀



とりあえず観た感想から。

まずひとつ目は、映画らしい映画だなってこと。
台詞が圧倒的に少なくて、常に美しい景色が流れている。深く考えなくても目が楽しい。ナレーションもなく、モノローグ的なものもラストシーンのみで最小限なので、その画を観て物語が進むのを把握しないといけない。最近だと逆にめずらしくなってしまった、わかりにくいと批判されるような映画だな、という印象。
(よく、テレビ版エヴァ・旧劇は不親切だ、わかりにくいと言われてるけど、庵野作品より押井作品のほうがよっぽどわかりにくくないか?と思ったりした。庵野監督はまだ抽象的ではあるけどオブジェクトを沢山出すのに対して、押井監督はごちゃごちゃした画がないので、解釈にたる要素が少ない気がする)
映像の美しさに関しては本当に一級品なので、正直なんの意味もストーリーもなくてもこの美しさを堪能できるなら映画館行く価値あるんじゃないかと思う。
特にすごいなと思ったのは、光と影のコントラスト。光源がどこにあってそこから光が照らされて、陰になる部分ができるというのがひとつ一つの場面で常にハッキリしている。陰から人物から出てきて光が当たる瞬間とか、夜のレストランの看板の煌々とした光とか、かなり拘って描いてるんだなーと。美しかった。
飛行機での戦闘シーンや、海、雲、小物の細かさとかいろいろ凄い点はたくさんあったけど、やっぱり一番印象に残ったのはそこだった。

そして、序盤からかなりはっきりと思ったのが、カメラの存在を故意に浮かび上がらせる撮り方をするんだな、ということ。押井監督の有名な特徴らしいと後から調べて知ったんだけど、かなり好きな撮り方だ。
これ、押井監督は語り手をあくまでカメラだということをハッキリさせたいんだと捉えている。「スカイ・クロラ The Sky Crawlers」というテクストがあって、それを語る(映す)者がカメラ。だからカメラが登場人物の一人称に寄ることも少ない。意識して語り手をテクストの外側へ出しているんだなという印象をもった。(私は大学で文学研究を勉強してた身だからこういう言い方しかできないんだけど、映像においてこういうのってちゃんと用語があるんだろうか。)


ストーリーについて。
私が事前に読んだ考察ブログにもあるのだが、「スカイ・クロラ」では普遍的日常について描かれていることは間違いない。
永久に続いていく日常。飯を食い、眠り、セックスをする。そして、飛ぶ。
キルドレの「歳をとらない」「たとえガワが変わろうとも、記憶や人格を引き継いでいる」というのは、明確に"作品の中の登場人物"としての側面がある。サザエさんしかり、ドラえもんしかり。
「世界が刻一刻と変わっていくなかで、成長しない。何も変わらない。毎日同じことを繰り返し、過ごす。しかし使命として闘いに身を投じている。さらに、その存在そのものが、カタルシスを求める観客によって仕組まれたものである」
ということ。

スカイ・クロラ」のストーリー概要を聞いたら、「エンターテイメントとしての戦争」という部分にほとんどの人が嫌悪を抱くだろう。そんなことをして失わなくていい命を失う必要があるのか?と。そんなこと今すぐ止めるべきだと。なんなら、戦争をそんなふうに描くこと自体が不謹慎だと批判される。観ていない人は戦争という大きなテーマがストーリーの根幹にあると思うかもしれない。
でも、今、映画やドラマや漫画やアニメやあらゆるフィクション作品を楽しむ私たちも、「スカイ・クロラ」の一般市民となんら変わりないのだ。
退屈で、何も変化のない日常。平和を平和と思えなくなるほど麻痺した生活。そんな中のちょっとした刺激に、私たちもキルドレのように時の止まったキャラクターたちを使って非日常を消費している。
アニメでもゲームでも、日常とは程遠い闘いをキャラクターに強いることで、私たちはカタルシスを得ているのだから。

語り手となったカメラがとらえているのは、紛れもなくこのキャラクターたちの苦悩でもあるのだ。
私たちが非日常のエンターテイメントを求める限り、キルドレは常に存在している。その仕組みそのものを壊すことはできない。そもそも、「スカイ・クロラ」という映画が存在している時点で、不可能だ。


草薙は、作中で死んでいったキルドレに対して「可哀想なんかじゃない!同情なんかで、あいつを侮辱するな!」と叫ぶ。
結局、私たちは非日常を求めることをやめられないし、そんな私たちにできることは彼らの境遇を嘆くことではない。同情することではない。
私たちにできることは、非日常を求めることをやめることではなく、退屈な日常を放り出して、諦めないことだ。

物語の最後、函南は「エンターテイメントとしての戦争」の仕組みとして絶対に勝つことは出来ないティーチャーに突撃しながら、「いつも通る道でも、違うところを踏んで歩くことができる いつも通る道だからって、景色は同じじゃない」と言う。

函南の前身である栗田は永遠に続く生活に追い詰められて、すべてを諦めて、投げ出すために自分を殺させた。草薙もまた、停滞した日常から救われるために自分を殺すように求める。
でも、函南はそれを選ばない。どれだけ代わり映えがない生活でも、違う道を歩くことを選んだから。
繰り返し繰り返し変わらない毎日でも、それを投げ出して諦めないで、ほんの少しずつ変えていくことができる。目の前のことをこなしていくことで。
函南の機体が穴だらけになって、その穴を通り抜けた先にあるのは、また、何一つ変わらない日々だ。函南はまた別な体に移って生き続けるだけで、なにか日常に劇的な変化があるわけではない。諦めるなと言いながら、その結果はいつも絶望でしかない。それでも、それでも、やっぱり諦めちゃいけないんだよ。

押井監督が、今の若者たちに観てほしいと言ったわけがよくわかる。
アニメやソシャゲに夢中になってるオタクたちは、非日常である2次元の世界やカタルシスの象徴である"推し"に自分を捧げている。
自己を見つめるよりも、自分の生活のことよりも、家族や目の前の現実、無味無臭で退屈でそれでいて面倒くさいリアルよりも、非日常の全てを選んでいる。停滞した現実から目を塞いでいる。
でも、停滞してると思っているその景色は、一歩なにか別の場所を踏みしめることで1ミリだけ何か変わるかもしれない。現実は変わらなくても、自分の目で見えるものが少し違ってくるかもしれない。

劇的でもない、カタルシスが得られるわけでもないこの作品が若者に受けないのは仕方のないことなのかもしれない。でも、私はオタクにこそ観てほしいと思ったし、自分も、これからも何度も観かえそうと思う。












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加瀬さん。
正直、声優向いてないんじゃないかと思ってしまった(笑)深夜までやったって言ってたし………。押井監督はまじめで、役柄への執着心がすごいと褒めていたけど、スタッフは加瀬さんがやり直したいと申告するたびに涙目になっていたんじゃないかと推察する。まあ、その後声優やってないしそういうことなんだけど。
でも、函南に関しては、ハマり役だった。個人的な好き嫌いを差し引いてもよかったんじゃないかと思う。函南という人間は独特すぎる。子どもではあるけれど、人生の経験としては普通の大人と同じようにあって、記憶が曖昧で感情が希薄で……。そういう危うくてアンバランスな函南に、加瀬さんの少し高くて、抑揚のなくて、そして若干不安げな感じが(笑)ぴったりだった。
草薙役の菊池凛子さんも、まさに少女と女性を行ったり来たりしたような声音で、他の登場人物の安定した声と対比になっていた。2人ともなかなか感情をあらわにすることはないけど、その不安定だけど抑揚のない声音が、まさに2人の状況を表してるようなかんじがした。
いつも、加瀬さんを目当てに観ているはずなのに、観ている最中は加瀬さんのことが意識に上らない。それだけその登場人物として在る。今回も声だけではあったけどそれは変わらなくて、自然と函南として受け入れることができた。

弱さを愛するということ

妹が福祉系の大学に通っており、このご時世でリモート授業なので、一緒にレポートの議題について考えたり参考書を読んだりして勉強している。
一冊、中学時代から希死念慮を持っていた私にとって、どうしても読まなくちゃならないと思える本があり、妹から借りた。


前半は実際の自死遺族当事者の言葉が、後半には自殺におけるケアの部分に関して綴られている。

私はどちらかと言えば、この本の登場人物で言うと、自死遺族でもなければ、ケアをする側でもなく、紛れもなく、自殺する側の人間である。だからといってこの本が参考にならなかったわけではなく、むしろ、読んでよかったと、心からそう思った。



希死念慮は中学生のころからあった。
でも、本格的に自殺企図を始めたのは、大学生になってからだと思う。あの頃の私は明確にどこかおかしかった。

毎日、駅のホームでここで飛び降りなければ、と思っていた。毎日、どんな死に方をすれば一思いに終われるか考えていた。私は死にたいというよりも、「死ななくてはならない」という強迫観念に縛られていた。毎日、死ねない自分はなんて不様なんだろうとさらに自分を責めていた。
死にたい、と、誰にも言ったことがなかった。正確に言えば、自分の声を通して誰かに相談することはほとんどなかった。インターネットに戯言として書き込むことはあったし、それを現実の友人が見ていることも知っていたけれど、それはもう随分追い込まれてからの話だ。
一度だけ、死にたいんだと母親に泣き狂いながら伝えると、「そんなこともう二度と言わないで」と逆に母親に泣かれた。
もう二度と言ってはいけないんだ、と思った。それから家族には二度と自分の自殺願望について話したことはない。

病院に通ったり、大学のカウンセリングに通っていた時期もあったが、それはすべて自分だけで行われていることで誰に促されているわけでもなかった。つまり、自分の調子次第で行ったり行かなかったりが続き、あまり継続的な効果は得られなかった。
少しずつこの精神病と呼んで良いであろう症状が寛解したのは、大学を卒業し、就活に失敗したことを両親に許されてからだった。

私はずっと、貧しさにあえぐ両親の姿を見て、それを支えられるのは自分だけだと思っていた。私が経済的に自立し、両親を援助することができれば、この先行きの見えない絶望からも、両親の不仲からも、周囲から見下される感覚も、すべてから解放されるのだと思っていた。だから、私の目標は常に「良い大学に入り、公務員になること」以外になかった。
目標というと違う。これは私の人生そのもので、それ以外の選択肢などないはずだった。

大学受験に失敗したとき、家族を救う唯一の方法だったその道から外れ、私は絶望に陥った。そして、両親の期待に応えられないこんな最悪な自分が罪を償うには、自殺するしかないと思い込んでいた。
でも、実際また「公務員試験に合格する」という正規ルートから外れたとき、両親は私を家から追い出すでもなく、むしろ就職しないなら介護と私たちの仕事手伝ってと、軽い感じで求めてきた。私は拍子抜けた。
惨めで、恥ずべき自分が許されているんだとわかって、私は初めて自分が死ぬ必要がないことを知った。


『自殺をケアするということ』では、一貫して「弱さ」を受け入れることがケアの第一歩になると書かれている。
自殺を望む者の弱さを受け入れること。自死遺族の弱さを受け入れること。

私の母は、私が「死にたい」と言ったとき、私の弱さを受け入れることができなかった。自分が育てた子が死にたがっている、その責任が自分にあると思い込んでしまいその先の思考を拒絶してしまったためだろう。
でも、私が鬱におちいり就活に失敗したとき、両親は私のそんな弱さを受け入れてくれた。
それは私が自分自身の弱さを受け入れるきっかけになった。自分自身の弱さを受け入れたとき、私は自分を殺すことで罰さなくてもいいのかもしれないと思えた。


今の世の中は、怖いくらい他罰的だと思う。
少しでも倫理に外れるようなことがあれば、バズって寄ってたかって叩かれる。芸能人のゴシップも、一般人の何気ないツイートも。そして社会的に抹殺しないと気が済まないほどにやり込められる。
日本人は少し潔癖だ。1つダメだと、すべてが汚されたように感じるのかもしれない。その気持ちはよくわかる。
でも、誰かの弱さを許さない自分は、やがて自分自身の弱さを許してもらえない環境へと繋がっていく。間違いを犯さない、弱さがない人間なんていなくて、そんな環境は絶対的にその人を崖っぷちへと追い詰めていく。

少し挫けたときに、その弱さや不完全さを笑い飛ばせる世界が必要だ。誰かの失敗を笑い飛ばして、誰かの弱さを受け入れて迷惑を被って、誰かの支えになる。それは面倒くさくて、嫌な役回りかもしれない。でも、それがお互い様になったときだけ、世界は回っていく。なぜなら、迷惑をかけない人間なんて、どこにもいないから。

誰かの弱さを受け入れられることは、強さとも言える。そんな強さがある人は、必ず求められる。誰も彼もが少しは甘えたいから。
もし、あなたがそんなふうに誰かの弱さを受け入れられたなら、今度は、誰かに弱さを見せる自分を、許してあげてほしい。
弱さを受け入れる、誰かに甘えられる、必要とされるという経験もまた人間には必要なことで、弱さを見せる人も社会に必要な存在だ。そんなこと、恥ずべきことでもなんでもない。

人は独りでは生きられない。
そんな言葉を聞くたびに、「そんなこと知ってるよ、だけど、心はいつも独りだ」と思っていた。わかりあえない。通じ合えない。いつも最後はひとりきりだと。
でも、最近思うことは、やっぱり心も独りきりでは生きられない、ということだ。
だって、まず、他者という存在がいなければ自己という認識すらも生まれない。この世に自分という生命しか存在しないのならば、「自己」「他者」という概念すらない。だからすでに、私たちは誰かの遺伝子を受け継いで、この世に生まれ落ちた時点で、独りではいられないのだ。

それは絶望であり、希望でもあると、思う。


鬱状態寛解して1年以上経った今でも、「自殺」は私の頭の中に常に存在する。
どうしようもなくなったとき、やっぱりあの時死んどけばよかった、と思う。今からでも死にたいと思う。「死にたい」と「生きねば」を振り子のように行ったり来たりして、それでもなんとか踏ん張って生きている。

『自殺をケアするということ』を読んで、自殺しなくてよかったと、思った。
死にたかった頃、もう一生わかりあえない、この人たちを殺して自分も死のうと思っていた家族を、自死遺族にしなくてよかったと、今は思う。その当時は憎み合っていても、生き続ければ憎み続けるだけの生活が待っていても、誰かが自殺すれば、そこから遺された者たちの苦悩が始まってしまう。
自殺してしまった人を否定するわけではなく、しかしこれは逃れようもない事実だ。
私も明日にはまた死にたいと思っているかもしれない。

それでも、自殺したいと考えている人にも、自殺なんて弱い奴がすることだと思っている人にも、この本を読んでほしい。
別に、家族の苦しみに想いを馳せて思いとどまれと言いたいんじゃない。ただ、死にたいと思うほど地獄でしかないこの世界にも、そんな苦しみをどうにかしようと足掻いている人たちが存在しているんだよと、それだけ言いたい。


愛するということは、生身の人間の弱さも葛藤も不完全さも、受け入れることだと伝えたい。自分の中の弱さを受け入れて初めて、私たちは誰かにやさしくできる。愛することができる。
こんなになるまで私は気づくことができなかった。でも、私と同じように自分をがんじがらめにしてしまっている誰かにもどうか、わかってほしい。
最期の選択をする前に、どうか。

「FROG RIVER」

2001年公開、「FROG RIVER」を観た。

あんまりにも良すぎて私にとってはわりと革命レベルだったため、これを書きながらめちゃくちゃ興奮している。すっげー。ってなってる。

Grasshopper! というさまざまな監督が撮り下ろしたショートフィルムを連載していたDVDマガジンに収録されていたものだ。
ANIKI監督、石井克人原作。


最初、観はじめたとき、冒頭の加瀬さん演じるツトムの全裸おしりふりふりダンスがあんまりにも衝撃的すぎて、そこから続きに進むことができなかった。ちょっともう頭が働かなかった。DJブース触りながら昇天してるし。ヤバすぎて笑うというよりは呆然って感じ。
でも、童貞くさいツトムの水野さーんとか、謎のダンスの妙にリズム感抜群なところとかに目が離せなくなっていった。それで、何度も繰り返しそのシーンを観てるうちに、ハウスミュージックというらしい音楽のビートに合わせてツトムがノリノリで踊ってるのがなんか気持ちよくなってきて、あれ、これ全裸ダンスしてる気持ちわかる気がするぞ、と。じわじわニヤけながらも4つ打ちの気持ち良さに酔えるようになってきて、初めて続きを観る気になった。

とにかく、おもしろかった。
登場人物の一人一人パンチが強すぎてちょっとしか出てなくても強烈なんだけど、でも別に奇行に走ってるわけではなく、フツーに日常を送ってるだけなかんじがいい。
そういう濃ゆいメンツに踊らされながらツトムはツトムでずっと水野さーん!だし。濃ゆさに流されていつも理不尽な目にあって落ち込むと思いきや、急に妄想が膨らんじゃってまた水野さーんになる。レコードとかツトムの部屋とかTシャツとか古着屋とか、すべてがみょうちきりんなのにセンスが漂ってて、悪趣味ではない。
悪友というよりはただのいじめっ子なシバにいじめられ続けるツトムなんだけど、ツトムの妙な明るさととぼけた他の人たちのおかげで全然痛ましさがなくって、ニヤニヤしてしまう。ふふって笑えるところばっかり。そんな笑い上戸じゃないのに、おかまとの決闘のシーンで「殺してやる!」って叫ばれてるの見て本当に声出して笑ってしまった。
台詞も名言というか、迷言というか、めっちゃ頭にこびりついてしまうものが多かった。「謝らないと固くなるかも。フレンチトースト」「2万!」「水野さん!」「やったよーやったよーやさしい水野さーん」「男と女の秘密教えてあげようか」「約束……」
あと、何気に庵野監督が飲み屋のマスター役で出ていて、それがほんとに良い味出してる。ただの友情出演て感じではなくて、ほんとに偏屈でやる気なくてオタクなマスター。めっちゃよかった。というか、作品自体にエヴァへのリスペクトをひしひしと感じた。なんていうか、母親が健在で美大に通うシンジはこうなるっていうか。ひたすら理不尽な目に遭って、逃げちゃダメだ、ならぬ「決闘は嫌だ」。

あと、音楽が気持ち良いのも外せない良かったポイント。冒頭のツトムが全裸で踊るシーンもずんずん体の芯にくる感じがしてよかったし、一番好きなシーンは、ツトムが寝そべってCrystal Watersの「Surprise」を流してるところに、田中兄弟がやってきて田中兄弟が踊り出すところ。あそこマジで気持ちいいうえにめちゃくちゃおもしろくて何回観てもニヤニヤしてしまう。私は店長と同じくロックTシャツを着る側の人間だからハウスミュージックなんて人生でまったく接点がなかったのだけど、もうすぐにクレジットをメモってApple Musicで探してたダウンロードした。これをきっかけにちょっとハマってしまいそうな予感。
ロックって、意外と教室の隅で休み時間突っ伏してる子たちのための音楽みたいな部分があって。みんなが放課後遊んでる時間、1人でツタヤ行ってウォークマンに入れてしこしこ聴いてるみたいな。だからダンスミュージックとは無縁な人生だったんだよね。ダンスって何だよってちょっと苦手ですらあったけど、この作品を観てからダンスってこれでいいんだっていうか、こういうのが一番楽しいんだろうなって思えて、ちょっと見方が変わった。

あーそれにしても、ツトムを演じている加瀬さんが本当によかった。2001年だから当時27歳くらいだったと思うんだけど、見事に田舎から出てきた純朴な童貞青年を演じきっていた。若い頃の加瀬さんの目は、どうしてあんなにも澄んでいるんだろうな。全裸ダンスシーンも振り切っていて妄想たっぷりで自己が肥大化した思春期感がめちゃくちゃよかったし、わざとらしいほどに昇天してる表情も笑えたけど、一番感動したのはラストシーンのパンチラ見てしまうところだった。多分、パンチラ見た演技するならもっと嬉しそうにニヤける顔すると思う、大多数の人が。でも加瀬さんは目を逸らして俯いてちょっと噛み締めるみたいな表情で、あーーーすっごいなぁて。ツトムが加瀬さんだからこんなに良かったんだろうなって思った。


映画ってこれでいいんだ、と思ったのは、私にとっては革命だった。今まで、映画を観るなら名作と呼ばれる古典作品は観とかないとだめだ、とか、映画好きがこぞってオススメするいわゆる「センスのいい映画」を好きにならないととか、義務感みたいな邪念があって、そういうのに疲れてあんまり映画を観たいという気持ちになれなかった。私が好きな小説も音楽も、コメディというよりは真剣な題材のものが多くてメッセージ性が強い。それらをずっと大切にしてきたし自分の核だと思ってた。だから、勝手に映画もそういうタッチのものが自分の好みだと思い込んでた。そうじゃなきゃいけないとすら思ってたかも。でも、もっと自己中心的でもいいし、ぶっ壊れててもテキトーでもふざけてても良いんだなって思えて、よかった。私って笑いたかったんだって思った。

でも、やっぱり今の時代だと放映するの難しそうだなーとは思う。特におかまのシーンとかね。LGBTとか多様性とか叫ばれてる昨今で、典型的というかステレオタイプなおかまを面白おかしく描いてる(と思われる可能性もある)という意味で、クレームが入りまくりそうな予感がする。
「FROG RIVER」がなんにも意味のない差別的なおふざけ作品かというと、私はそうは思わなくて、むしろ、おかまとか男とか女とか関係ないよねっていう制作側の思想が見えるような気がして、私は嬉しかったけど。
ツトムがおかまについてどう思ってるか問われて、「ちょっと気持ち悪い人もいるけど、……好きとか嫌いとかじゃないっていうか。……まあ、いるなぁーって感じ」って返すの。
私はこれが本当にそのまま、この作品なんだなって思った。別に無理に知ろうとしなくたって認め合おうわかり合おうとしなくたって、ただ、そこに在ることを受け入れ合うだけじゃダメなんだろうか。それこそ、ツトムは難聴(どの程度のレベルなのかは分からないが)だけど、作中で難聴だからどうこうというのは出てこないし。ツトムだって誰かから見れば家で1人全裸で踊ってるキモい奴なわけだ。シバにバカにされたおかま2人だって、古着屋にいた女装家だって、別にそいつらがそういう人間だったってだけで、おかまや女装家が全員そういう人間だって決めつけているわけじゃなくて。むしろ、この作品はもっと自由だと思う。
ツトムは蛙川を渡れなくて、「真の男になる」儀式に失敗したけど、そんなことってどうでもいいんだよね。そもそも、蛙川を渡るのが真の男っていうのも誰かがテキトーに決めたテキトーな儀式なわけで、間に受ける必要もない。
もっと言うと、別に「FROG RIVER」はそういうメッセージを伝えるためにつくられた!とか言うつもりもなくて、ただ、私はそう感じたなーっていうだけ。どんなふうに見たって、一緒に全裸ダンスしたって、なんだっていいじゃんって思う。そう思わせてくれるような映画だった。

たくさんの人に見てもらいたいなーとか思いつつ、そんな番人受けするような作品でないこともわかってる。でも自分はこれからの人生、つらいときもうきうきしてるときも何度となく繰り返しこの作品を見返すんだなと思う。それを確信している。