重力ピエロ 観た

 

2009年 「重力ピエロ」観た。

原作は伊坂幸太郎

学生時代、狂ったように本を読んでいて伊坂作品もほとんど読んでいたが、なぜかこの作品だけは読んでいなかった。映画を観てから、原作を読んだ。

映画は、原作ものとしても、単純に映画作品としても好きなものだった。とても。

原作とは異なる設定の部分が多数あるけれど、それも含めてよくまとまっているし、映画化した意味のある作品になっていると思えた。

一番最初に思ったのは、キャスティングが良かったことだ。正直、いろんな圧力を感じるキャスティングが多い邦画だけれど、この作品にはきちんとストーリーに沿った配役がなされていて、それが効果的に働いている。

美しい妻と、冴えない夫。その冴えない夫に似た、冴えない長男。冴えない男性陣に似ても似つかない美しい次男。そして、その美しい次男に似た、憎むべき犯罪者の男。この作品の根幹には容姿が深く関わっているし、その根幹に沿った容姿のキャスティングがされていて、矛盾がなかった。

長男・泉水役の加瀬さんご本人は整ったお顔立ちだと思うが、冴えない男の雰囲気を纏うのが異様に上手い。今回もそこらへんにいる凡庸で運動音痴な理系の冴えない男として弟のそばで霞む兄として完璧だった。

そしてなんと言っても、次男・春役の岡田将生さんの美しさたるや。父親と兄のことをゆうに越した高身長と、母親似と思われる色白に、彫刻のような造形のお顔。この作品の映像美は岡田将生によって創られていると言っても良い。それくらいに、この画を観ていたいなと思うシーンには必ず春がいた。

この似ても似つかない2人なんだけれど、交わす会話の近すぎず遠すぎず、砕けすぎずかしこまりすぎない距離感が絶妙に2人が兄弟であることを納得させてくれて、泉水と春が加瀬さんと岡田将生さんでよかったーと心の底から思ったりした。

(子ども時代の2人を演じた子役も、大人の2人とすごくよく似た役者さんを配役していたのも良かった。映像作品において容姿とストーリーの整合性って結構重要だと思う。)

 

映像作品として観ることができてよかったな、と思う点。まずは、「春が二階から落ちてきた」という印象的な原作の最初の一文の再現。あれを映像として観ることができた時点で、かなり最高だった。桜の花びらが舞う青空の一拍あと、舞う春。さらに続きの文章も連想できるし、なにより落ちてくる春の神秘性は言葉にできないものがある。あれが最初に流れたら一気に空気が変わって掴まれてしまう。綺麗な始まり方で、綺麗な終わり方だ。宣材ポスターあのしーんでよかったじゃんね?

また、春が自室に地図を貼っていることに気づくシーン。葛城の顔写真のコラージュや事件についての新聞記事をびっしりと壁一面に貼っているのを絵面として観ると、春の狂気性というか、長い時間かけて綿密に練った計画を遂行しているという実感が迫ってきて、かなり怖かった。口数が少ない春の、長年の苦しみの集積という感じがする。原作はわりとなんでも軽いタッチで書くというか、わざとシリアスにならないようにしてある感じがあるので映像として観ることで春の23年に少しでも触れられるのはよかった。

あと、一番に良かったシーンは、なんと言っても、燃え盛る炎のなかで泉水が居るのを見て、微笑んでバットを振る春。クライマックスだ。あそこは原作にもない描写。原作では泉水は腰が抜けてて直で見届けていない。それはそれで、泉水の覚悟のなさとかリアリティがあって良いとは思うんだけど、やっぱり映画のあのシーンは綺麗だった。最後の放火場所が犯行現場であり思い出の家っていうのは一連の放火事件としての整合性もあるし心情的な納得感もある。それまで迷いがなかった春がなかなかバットを振れなかったのに、泉水がいてくれた、というのを見た途端、安心したように、うれしげに、微笑んで振りかぶる様は美しかった。わざわざ大切なことをするときに泉水を呼ぶ春の心情が伝わる良いシーンだった。

序盤の絵面が地味で退屈だとか、伊坂作品特有の人物の会話がわざとらしく聞こえるし再現できていないとか、そういう意見も見たけれど個人的には感じなかった。のんびりした家族の団欒の中にずっと妙な緊張感があるのに加えて、泉水と春の会話は伊坂作品ならではの洒落た皮肉が散りばめられていて笑えた。特に春の大仰なガンジーの引用とか、春の現実離れした容姿と退屈そうな話し方がぴったりで全然違和感がなかった。泉水の弟優秀すぎ洒落皮肉も適度にだるそうでおもしろかった。

あと、主題歌がかなり良かった。切なすぎず、大仰すぎない。全編英詞で流れるのも、邪魔しなくてよかった。日常的でさりげなくはあるんだけど、やっぱり胸が締めつけられる。

 

あと、原作と映画では設定の違う部分について。映画から先に観た私でも内容が理解できないことは全くなかったし、ごちゃついた印象もまとまらないこともなくすっきりと楽しめた。逆に原作を読んだ後でも映画が原作の良さを消してるとはまったく感じなかったのも理想的だ。

泉水が大学院生だとか、連続放火事件の謎解きの仕方とか、探偵がモブになってるとか、ちょくちょく違う部分はあるけど許容範囲というか、2時間に収めるためには当たり前の短縮だよな、と思える範囲。

 

ただ、残念だと思ってしまう改変が2つあった。1つは母親の死因。原作では病死とされていて、どんな病気か、闘病中のことは書いていないんだけれど、はっきりと病死と書かれている。映画では事故死で、しかも警察が自殺の線も考えているといっており、どちらかが明言されていない。母親の死って、この家族において一番大きな意味を持っていて、そこに「自殺かもしれない」っていう要素を入れてしまうのは、家族3人のその後の心境がかなり変わってしまうと思う。そもそも、発端の事件の直接の被害者は母親で、でもその母が春を愛していて、産んだことを後悔していない、という前提があるうえでの家族3人だと思う。その中で母親が「自殺かもしれない」となってしまうと、その前提が崩れてしまうわけで、作品全体の重さというか、シリアスさの割合がかなり増えてしまうと思う。春は家族に愛されている。その前提は崩しちゃいけない。

2つ目は、泉水が遺伝子検査をやるタイミング。原作では、物語が始まった当初からすでに泉水は葛城を殺害する算段をたてていて、それと同時に遺伝子検査も進めている。その順序であれば、葛城を殺したい→本当に葛城は殺すべき加害者なのか?→遺伝子検査、という流れが理解できるし、そこで本当に加害者であったために、殺害計画はさらに具体性を持って進行していく。でも、映画の順序だと、ひょんなことから葛城が地元に戻ってきているのを知る→遺伝子検査を決行→葛城がゴミクズだと身を持って知る→殺害を計画する となる。そうなると、泉水は「春の父親を知りたい」という欲求に抗えずに遺伝子検査をしたことになる。それは泉水がなにより血にこだわっているという証左になってしまうし、「春はお父さんの息子だ」を、疑う泉水になってしまう。それは、原作の意図とはかけ離れている。

以上の2つだけ、改変によって原作と意図が変わってきてしまうと感じた点だった。ここが原作通りだったら文句なしだったなあ。

それでも、やっぱり映像化して正解だったという感想。観てよかった。アマプラでレンタルしたんだけどすぐ48時間すぎちゃってショックなのでまた借りようと思う。

 

作品の中身についての感想。

岡田将生さんが、春について結局よくわからないままだった、というようなことを言っていたんだけれど、それって本当にそうで、岡田将生さんはすごく誠実なんだろうなって思った。正直、そんな境遇に生まれた人の心情なんて身に迫ってわかるわけがない。自分ならまともではいられない。多分狂っているし、とっくのとうに精神科入院コースだし、それか犯罪非行まっしぐらだと思う。もし、岡田将生さんが知ったような口をきいてうすっぺらな春の苦悩についてべらべらしゃべるような人であったら、春のあの絶妙なバランスの危うさや神秘性はなかっただろうと思う。

これは、伊坂幸太郎の描き方の勝ちなんだ、つまりは。

この作品の主人公はあくまでも泉水で、原作も映画も泉水の視点から進んでいく。泉水も結局は当事者ではあるけれど、直接の被害者である母親の気持ちも、そして生まれてきた春の気持ちもわからない。推察するしかない。正直に言って、読者や観客が「わかった」気になれるのは、泉水までなんだと思う。泉水の苦悩や、泉水から見た家族。春や母親のことは想像しても共感はできないだろう。泉水を通して、きっと春にはこんな苦しみがあったのかもしれない、と推察するしかない。だからこそ、この作品はあくまでもずっと傍観者で、春に騙されて転がされる泉水の視点から描いた、泉水が主人公の物語なのだ。だから、春のことがわからないのは、当然といえば当然のことなのだと思う。