自由が丘で 観た


最近、加瀬亮さんにハマっているので、
彼が絶賛していた現場だった「自由が丘で」に興味が湧いて、アマゾンプライムでレンタルして観た。もう7年前の作品だ。

結論から言うと、拍子抜けするくらいすきな映画だった。めちゃくちゃな感動があるわけでもないし、大笑いできるわけでもないけど、何度観てもおもしろいと思う。

この映画の一番の見どころというと、やっぱりそれは時系列がバラバラに編集してあることだろう。賛否両論あるだろうこれ、私はなんの違和感も不自然さもなく、すんなりと受け入れてみることができた。そもそもそんなに長い映画じゃないし、起こる出来事も複雑でもなければ多くもないので頭のなかで勝手につなぎ合わせて理解できてしまう(これがモリのいう人類の脳みその進化なのか)。むしろ、次に起こることがなんなのか予想して怖くなったり興醒めしたりすることが多い身としては、こういうまったく予想がつかない展開は予期の放棄に近くて、なんなら観やすいくらいに感じた。この話が時系列通りに進む作品だったらもう少し退屈だったと思う。
私にとって一番印象的だったのは、登場する人々がものすごく自然で、リアルな人間だったところ。たとえば、主人公のモリははじめ親切でわりと知的な印象だし、そして、日本人らしくないとも言えるほどハッキリ自己主張したり、怒りをあらわにするので、自立した大人な男性に見える。そうかと思えば、酔っ払って初対面の人にだる絡みしたり、良い感じになったカフェの女性と流されて一晩共にしたりする。そんなふうに、観てるほうからしたら若干イラつくほど人間らしく良いところも悪いところも映される。それは他の登場人物も同じで、仲良くなった韓国人のおじさんもモリにとっては良い友達だけど、若い女の子ナンパみたいなことして逆ギレしてるし。みんな使ってる英語はカタコトで(これはわざと母国語に近づけて発音していたらしい)、大袈裟な表情もなく、大抵ぎこちない。全員が偽善的でもなく、露悪的でもない。強いて言うならカフェの女性の彼氏は最悪人間だったけど、こういう男性本気で存在してるからな。本当にモリが韓国へ出かけたときの話をお酒を飲みながら聞いているような(思いついたところから話すから、行ったり来たりするような)、そんな感覚をおぼえた。
ストーリーとしては、ドラマチックでもフィクション的でもない、何にも起こらない話だ。それでもモリには日々何かしらがあって、それを観ていると退屈しない。結局モリはクウォンと会えるのかという点はドラマチックというほどでもないけれどたしかに気になるから、集中が途切れることもなかった。景色は常にうつくしいし、会話のない場面も観ていて飽きない。加瀬さんは基本だるだるのTシャツにだるだるのパンツというスタイルなのに歩き回ってタバコを吸う姿だけで様になるから不思議だ。
映画はあまり観ないから、カメラワークとか照明とかそういう難しいことはよくわからないんだけど、たしかに全然カメラが移動しないなとは思った。酔わないからありがたかった。謎のズームに関しては理解不能すぎてウケてしまった。でも、人間ふと注視するところなんて特に意味はないので、そんなもんなのかもしれないと思ってそこまで嫌ではなかった。ウケたけど。
ラストだけは、少し混乱した。モリが日本へ帰国した後にまた時系列が戻るのだけれど、モリが目を覚ますところからで、え?!クウォンと会えたのって夢オチなの?!とビビりまくってラストを何度も観かえしてしまった。たぶん、一枚だけ落としたままの手紙は、カフェの女性のいけすかない彼氏と殴り合いするところで、だから飛んでるんだと思うんだけど。きっと映画なら一番盛り上がるような場面なのに、わざわざそこを切り取ってしまうところがすきだな。

まとめると、すごくかわいくてなんてことはないけれどおもしろい映画だった。私は特に好きなタイプだ。ホンサンス監督の映画はまったく観たことがなかったので、これを機に他の作品も観てみたいなと思った。加瀬亮が観たい人も、単に映画を観たい人も、ホン・サンス監督が好きな人も、みんな楽しめるとおもう。




以下、観ていたときのなんとなくの感想

・韓国のゲストハウスって部屋に鍵ないの?防犯的にどうなの?
・ゲストハウスの部屋の中にはカメラがいかないのはどうしてだろう。部屋の中での出来事は手紙には書かないからかなあ。扉がピシャリと閉まると中が気になる。
・モリは韓国語話せないくせにどうやって語学学校で働いてたんだよ。
・ゲストハウスのおばさんとの話は興味深かったし、モリの言う通りだと思う。
・序盤、クウォンは咳き込んで手紙落としたりしてたけどほんとに身体は治ったのか?やっぱり夢オチじゃないよね?
・犬の名前クミが夢って意味なのも不穏すぎて嫌なんですけど。
・酔っ払って空気読まずに若干初対面の人に引かれてる感じ、現実で見たことあるやつすぎて悲しくなった。酒やめな。
・なかよしになったおっさん、これまた現実でよく見る若い子に声かけるけど冷たくされて逆ギレしてるおっさんで悲しい。現実見な。
・飯食った後の皿ズームは草。
・モリ、あんだけクウォン一筋感出しときながら手紙で呼び出されたら普通に行くの草。
・店に入って、キスするシーンが影でしか見えないのはすきだった。
・部屋の灯りだけが映ったとき、「エッッッヤッちゃったわけ?!?!!!」て度肝抜かれたわ モリ、ヤるなや。
・ていうかそこまでガッツリキスするとおもってないから。心臓とまるわ、と思ったらキスしてるとこズームされてドキドキが消えた。ウケるて。
・ピロートークでDo you love me?て訊かれてどうしよ……てなった挙句Yes.I love you でオイオイオイ………。
・意を決してほんとのこと言おうと部屋行くの草。部屋行ったらやるやん。って思ったら即落ちで草。当麻の声で馬鹿じゃね瀬文って聞こえたもん。
・トイレに閉じ込められるくだりめちゃくちゃおもろかった。モリのドア越しの声情けなすぎるし。一番の山場これかよてなった。さすがに全裸じゃなくてよかったねになったけど。
・別れ際、ちょうどカメラに映る側があざになってて、右利きの人が殴った感じになってるのはよかった。
・モリがクウォンの脱いだ靴に視線を注いだ後、ドア開けるところもドキドキした。
・最後のシーン、飯に誘われて酒飲み交わした翌朝だと思うんだけど、モリめちゃくちゃ自分からキレイだよとか言うやん。この後5時まで爆睡して睡眠が必要とかいうとこになるのかな。
・結局、夢オチなのか本当にモリとクウォンが出会えたのかめちゃくちゃ気になる……。けど、答え合わせを望むのは野暮なんだろうなあ。夢オチ示唆する要素もあるけど、逆にクウォンがカフェで話してるところとかも見ると、ほんとに会えたのかなって気もする。

シンエヴァ 感想2


パリ旧市街での復旧
・これまでのエヴァンゲリオンが終わって画面暗くなってからマリの鼻歌だけが小さく響いて、それがどんどん近づいてくる(大きくなる)演出がよすぎる
・マリの戦闘は安心して観てられる 不安を感じにくい マリの覚悟と余裕のおかげだな
・リツコさんとマヤの14年間の圧倒的成長を見せつけられた

第3村
・シンジは失語症になったと解釈してる人が多いが、失語症というよりはアスカの言う通り「生きたくもないけど死にたくもない」状態になってすべての意思を失っているんだと思う
・トウジ、ケンスケ、委員長のシンジ・黒波を受け入れる懐がすごい
14年間厳しい生活を強いられているとちょっとやそっとじゃ動じないね
・委員長の父親の言うことは正論だけど、シンジはみんなをめちゃくちゃにした存在で、喜んで貴重な飯など食えるはずもない
・黒波が人や犬や猫や赤ちゃんと心を通わせていくシーン 涙
・アスカ正論ドストレートパンチかましすぎ
でもシンジのことちゃんと見張って、戻ったシンジには「じゃあケンケンの役に立って」って感情より生活の話をするアスカ 大人になったね
・ケンスケの人との距離感、絶妙すぎる
・放っておいてほしいのに!なんで皆んなそんなにやさしいんだよ!の台詞に毎回号泣
でもシンジが人のやさしさを理解できるようになったというよりは、本当に周りがシンジに優しくなったなぁって それがうれしい
・その後の黒波の すきだから 碇くんがすきだから でさらに号泣
・委員長の「変わらない毎日でいいの」、トウジの「落とし前をつける」、ケンスケの「父親と話せ」→アスカ「碇ゲンドウは荷が重すぎ」など一作品に一個の感動台詞レベルの良台詞のオンパレード
加持リョウジ出てきた瞬間最初は頭ショートしたけど14歳でもうあんなに働いてるんだね 当たり前だけど 知り合いじゃない人に初めて会ったわりには臆さない
・黒波が消えるまでの黒波の手紙、台詞、すべてが良い 号泣 好きなひとと、ずっと一緒にいたかった ね
・また目の前で心を通わせた人を失ったシンジがそれを受け止めてヴンダーに乗る決意をできたという圧倒的強さ
・村で学べること→生きることのすべて


ヴンダーに戻って
ミサトさん 14年前 シンジに重荷を背負わせてから自分の心を封印してしまったんだね
・それでも、すいかの種を前に思いに耽るミサトさんに涙
・リツコさんのミサト理解度・愛情 凄まじい
・シンジくんが戻ってきてくれて嬉しいんでしょ、…………… ミサトさん かわいい プラグスーツ大事に取っといてたしね
エヴァの呪縛でも髪は伸びるなら 爪は?シンジの髪は?
・ミドリちゃんはヴンダーの隊員のわりには1人だけ一般人の感覚をずっと忘れないでいる人なんだなって印象
・他の隊員も家族を失ったりしてるだろうに、ちゃんとシンジとミサトさんが1番苦しんでるって理解してるのが感涙
・アスカのシンジへの告白 シンジの答え
2人とも大人になったんだね
・自分のことは責任取りたくなくて選んでもらえなかったのに、レイのことはなりふり構わず助けるのは流石にきつすぎたろうな
・青いバンダナ 涙出る 加持さんの形見
ミサトさんの台詞ぜんぶ感動したから甲乙つけがたいけど、1番強い感情を感じたのは「本当はあのとき加持と一緒に残りたかった」だな
・すべてを受け止めつつミサトさんを導いてくれる賢く強いリツコさん



ヤマト作戦
・象徴的な会話すぎて意味不明になる
・でもやっぱり戦闘シーンかっこいい
・ここで気づいたけど、アスカの喋り方というか声の出し方?ちょっと大人っぽくなった 昔のミサトさんに近くなったというか
・当のミサトさんの声は硬く高らかで艦長らしい
・いちいち観客と同じツッコミ入れてくれるミドリちゃん草 かわいい
・アスカがシトの力を解放するシーンはアスカが苦しそうで悲しい もうがんばらなくていいよアスカ………
・でもやっぱりマリがいると絶望しなくて済む
・躊躇なく発砲するリツコさんに最初度肝抜かれた 変わったねえ 情に流されて男に屈する女じゃなくてゲンドウなんて願い下げの強い人になった
・人を捨てたゲンドウ キモくて草
ネブカドネザルの鍵って結局なんなん
・冬月副司令 普通にめちゃくちゃ老人なのに強すぎて玄人老人感すごい でも冬月がここまでゲンドウに尽くすのってなんでなん?最愛の人の旦那なのに………冬月の気持ちが1番わからんかも
・葛城父、人類補完計画を遂行しようとしてたとして、ゲンドウに陥れられて逃げ損ねたの?それとも最初からそこで死ぬつもりで?ミサトさんのことはやっぱり愛していたから逃したんだろうけど


シンジ、出発
・シンジの覚悟を決めた目 かっこいいよ
・あれだけトラウマがあったDSSチョーカーを自らつける強さ
あとチョーカーつけるときちょっとジグザグの部分逸れてからくっつくところがリアルすぎて好き USB挿すの失敗するのと同じカテゴリ
・結局、シンジがエヴァに乗らなきゃもう希望はゼロの状態でなぜミドリやサクラは止めようとするのかわからない
シンジがエヴァに乗れば全滅の可能性が大だけど、助かる可能性もある でもシンジがエヴァに乗らなきゃ助かる可能性はゼロ ゲンドウの成し遂げることを黙って見てるだけになる そんな状況でシンジを止めて何になるの? 気持ちの問題というより、シンジを乗せたらなんかやばいっていうぼやっとした危機感だけ記憶してる感じ
・ミドリはまだわかるけどサクラお前どうしたんだよ 一般人の矛盾した気持ちを表現したいのはわかるんだけどなんか苦手
ミサトさんが庇うのはそりゃーーそうだよな………という感じ
ミサトさんとシンジの「いってらっしゃい」「いってきます」に号泣
ミサトさんも本当に子どもを産んで40代になってようやくちゃんと母親になれたんだなぁ 最初からミサトさんはシンジの家族でシンジと向き合ってた大人はミサトさんだけだったけど まだ旧劇のころは未成熟すぎた 母親になるには若すぎた やっと2人が笑って通じ合えたときはもう終わりのときなんだね


碇親子の対決
・初号機の中のレイ、ずーーっと、シンジがエヴァに乗らなくて済むようにそこで待っていたんだね シンジを想って 涙
・ちゃんとレイに護られるんじゃなくて、シンジが決着をつける
・量子テレポートを繰り返すゲンドウ、やっとユイに会えるからうきうきで草
・イマジネーションの中で戦う初号機と13号機、 作画安っぽくなったなーと思ったらセットの中だったり 絵に詳しくない私でもすぐわかる作画の違い凄すぎる
・今までのいろんなセットで闘うの何気に胸熱シーンでは?
エヴァイマジナリーのマネキンっぽいの、妙につやつやでキラキラだったのはわざとだと思うんだけどなんでだろう?正直ギャグだった
・「イスカリオテのマリ」裏切り者の聖母
この言葉からもやっぱりマリはシンジの聖母なんだよなーーになるよ
・冬月、いつも最期1人きりで悲しい
ゲンドウにはユイがいるしシンジもいるのに
・槍を届けるときだけ最期だから艦長としてじゃなくてミサトとして素でいられるミサトさん リョウジJrはきっと2人を恨まないと思う ミサトさん 生きてリョウジJrに会ってほしかった
・リツコさんが託されたから絶対に大丈夫ってわかってるけどね
・ヴンダー操縦士の女の子できる子で好き ミサトさんのものに戻ろうとしたり、信念があるんだろうなって伝わる
・シンジが父さんの話がしたい、と言えるようになったの、本当に強くなったなあ
・ゲンドウの昔話、観客みんな「うん、知ってた」案件ではあったけども改めて語られると苦しいものがあるね
・いつもの夕方の電車の描写 すごく好きだ
精神世界の描き方として完璧だと思う
・幼いシンジに「その弱さを認めないからだと思うよ」とかいう正論パンチをうけるゲンドウ(私)
・普通に回想に登場するマリ マリは結局漫画版と同じ感じでいいのかな?
・幼いシンジを置いてホームを去ろうとするとき、ちゃんと戻って抱きしめてあげててよかった シンジも報われてよかった
・家族同然のミサトさんの死と想いを受け入れるシンジ 大人になったな シンジ (お前に言われたくない)
・ユイに会えないの残念がってたけど、シンジの中にあるユイを見つけられてよかった ちゃんと向き合ってユイが残したたからものに


みんなとのさよなら
・式波タイプのさみしさ オリジナルの苦しみに比べたら純粋な ただ純粋なさみしさ そばにいてくれるのは人形だけだったのに 最後にその人形がケンスケだったってことは アスカにとって居場所はそこなんだね アスカはアスカ エヴァから解放されてほしい
・旧劇と同じように浜辺で、でも青く元に戻った浜辺でオリジナルの歳が戻ったアスカといられたこと それで好きだったとシンジが言ってくれたこと すべての救いだね
・カヲルも苦しかったんだなーって初めて思い至った 当たり前か シンジのこと助けようとして自己犠牲してばかりなのはループできるから自分はどうだっていいっていう投げやりな気持ちも少しはあったのかな
・加持とカヲルのシーンあれ何?意味わからんかった カヲル司令ってなに、、、
・レイとシンジのシーンはNHKスペシャルで出てた撮影の場所だよね
・レイが抱っこしてたのってツバメの人形?最後に握手もしてた?し、アヤナミシリーズはみんな魂の部分は繋がっていたんだな
・シンジが最後、救世主/創造主として最期を迎えようとしたとき、ユイが代わってくれたの本当に感動したなあ
旧劇と違って初号機の中のユイの出番少なかった気がするし、エヴァも母親というよりは魂の器・肉体としての側面が強かったからユイが初号機に残ってるのがこうやって回収されるんだーて激しく納得した
・最後絵コンテになっていく演出ってどういう意図なんだろう エヴァっていう作品にシンジだけ取り残されていくっていうことなのかな
・迎えにきたマリが海にドボンしてメガネはずれたのは、ユイの思いを引き受け終わって解放されたってことかな


最後に
・シンジの声あからさまに神木くんで度肝抜かれちゃったな
・あと大人シンジふつうにかわいいねとか言えるやつになってて死んじゃった
・冊子にもあったけど描きかえられたエヴァがない世界でレイもカヲルもアスカもシンジもマリも楽しく生きてけてるって暗示だと受け取ってる
・マリが最後DSSチョーカー外してあげるシーンは、シンジが創造主から普通の男の子へ戻ることじゃないかなあー
・チョーカー外してることから 未来のリアルシーンではないと解釈

鈍痛


鬱だったころ、いつも心臓が痛かった。
ナイフで刺されたみたいに、さながら血が流れてるみたいに痛くて泣いていた。
あのころはよく神聖かまってちゃんを聴いていた。というより、聴ける音楽はかまってちゃんくらいなものだった。他の音楽を身体が拒絶してる感じがしていて。
触れている人間の言葉が鋭くて、一人で歩く帰り道は反芻しながら泣いていた。私はどこまでも社会にうまく適合できない。他人が苦手だ。

なんとなく、少しずつ、苦手なものをうまく回避する方法を身につけて、心を麻痺させる術も覚えていった。今はもう病院にも薬にも頼らないし、人に当たり散らすことも少ない。
そうやって健康な生活を手に入れて、それで空っぽのままの日々だ。
ちょうど、卒業と新型コロナの流行がかぶって、みんながいろんな経験や機会を失って、それを言い訳に社会から少し離れた場所にいた。
毎日同じ日々だから、卒業してから時間が経っているのがよくわからない。自分だけまだ学生でいるような感覚が続いてる。夢のなかにいるみたいな感覚が続いてる。
自分だけずっと立ち止まって彷徨っている。
でもいろんな感覚や感情を鈍らせてあるからあまりつらくはない。鈍い痛みがずっとある。
どこからくるかもわからない、どこが痛いのかもわからないようななんとなく鈍い痛み。
あのころ聴いてた音楽を今聴いてもなんにも感じない気がする。歌詞全部覚えてるのかなぁ。
あのころのほうが泣いていたのに、今はあのころが恋しいんだ。


エンドレスダンス

エンドレスダンス

シンエヴァ感想(ネタバレあり)


一度観ただけ、とり急ぎ感想を

(ネタバレを含みます)
















シンエヴァによって、エヴァンゲリオンという作品はよりいっそう特別なものになった。本気でそう思うほど、これまでのテレビアニメ版、旧劇場版を含めた終わりにふさわしい作品だった。






・村の生活について
2時間40分という長編になったのは、前半の「第三の村」での生活を丁寧に描いたことによると思うんだけど、これによって、シンジが人類補完計画ではなく、人間が生きるこれまでの世界を選ぶことの根拠が強化されている。さらに言うと、人間の生活の尊さ、継承されていく命をていねいに時間をかけて描写することによってシンジやレイが生きることを肯定的に受け取れるようになっていく。
シンエヴァを観た後でテレビアニメ版での「おめでとう」や、旧劇場版での心象風景の描写を見てみると、きっとあの頃理解不能だった部分がより芯に迫るんではないかと思う。

・大人キャラ
新劇場版では、旧劇場版と違って14年の歳月が経っている。それによって、ミサトやリツコ、アスカなどのシンジ以外のキャラクターは精神的な成長が見受けられて、そのおかげで終盤からヴィレにとって良い方向に巡っていた。もともと、テレビアニメ版・旧劇場版ではミサトやリツコなどの大人キャラクターも精神的な不安を抱えており、自己矛盾やインナーチャイルドによって感情的になる面が大きかった。それはそれで大人という存在のリアルという感じがして私は好きで観ていたけれど、そういった大人キャラクターの精神的な幼稚さがエヴァに乗る子どもたちを追い詰めることに繋がっていた。シンエヴァでは、アスカもミサトもリツコも、葛藤を抱えつつも精神的に成長し、変わった様子が見られてよかった。

・これに合わせて、ミサトについて
ミサトの破・Qの発言の矛盾や、シンジへの態度に対してこれまでオタクたちは散々おもちゃにしてきた。過度なヘイトを向けてシンジの辛い境遇を全てミサトのせいにするオタクもたくさんいた。ミサトの発言をネタにしてPVを稼ぐのがテンプレートになっていってた。ミサトはシンジに悪影響しか及ぼさないとしていたオタクたちの解釈に対して、きちんと作中でミサトの葛藤と贖罪、シンジとの信頼関係を見せてくれたことに感謝。ずっと堪えててよかった。ずっとミサトさんを信じてきてよかった。やっぱりあなたは最高の艦長で、まぎれもなくシンジの家族だよ。
あと、ミサトさんが女版ゲンドウとしての道を歩んでるという感想がちらほら見受けられるけど、私は全くこれには賛成できない。ゲンドウは父としての存在は放棄せずにシンジを拒絶したし、自身の欲望のためにシンジを利用しようとした。対して、ミサトさんは一貫してゲンドウとは対立した立場にいたからこそヴィレの艦長をしていたわけだし、実際ヴィレの働きがあったからこそ、息子が住んで、健やかに成長することができている(?)村が存在できた。母としての存在も明かしていない。もし、万が一息子リョウジが「自分は要らない子だから両親に捨てられたんだ」という発想になってしまった時、それを止めて真実を話してくれる大人もミサトさん自身が犠牲になることで生かすことができた。ただ、贖罪のためと言っても2人のアプローチ方法はまったく違ったものだと思う。

碇ゲンドウ
旧劇場版で幼いシンジとシンジの心象世界が描かれたのに対して、シンエヴァでは碇ゲンドウの幼少期からこれまでの感情が描かれたのも、安心した点の一つだった。ゲンドウの気持ちを聞かせてもらったことで、シンジはシンジで、ゲンドウが何を考えているかわからない強固で怖い大人ではなくて、自分と同じように葛藤する弱い人間であるということが理解できるようになった。思春期というのは自立心が芽生えて親から巣立つ準備をする時期であるとともに、親も一人の人間で、間違えるし自分とは違う思想を持っているということも理解する段階にある。ゲンドウとシンジは今まで向き合ってこなかったからその段階を踏むことができなかったけど。
本来なら、親子の対話はゲンドウから持ちかけなければならないはずだった。でも、シンジのほうが先に集団に揉まれ、人間を受け入れることができたから、ゲンドウはシンジに救われた。幼いシンジはゲンドウに抱きしめてもらうことができたし、無数の綾波レイにも見つけることができなかったユイを、シンジに見つけることができた。対話は遅すぎた。ゲンドウはどんどん歳をとるごとに頑なになって、きっとこの後に及んでじゃないとシンジの言葉になんて耳を貸さなかっただろうから、仕方ないんだけどね。

・エンディングについて
最後の成長したシンジたちの実写パートを作中の現実として受け取っている人たちがたくさんいてわりとびっくりしている。駅のホームで突然首の輪っか(名前失念した)をマリが外すことある??あの描写で私はあーこれは現実ではないのかなという理解をしたのだけど。作家論的に言えば庵野監督がモヨコさんの手助けによってエヴァから解放されたとも読み取れるし、作品のみで解釈すれば単純に彼らの世界はエヴァンゲリオンが存在しない世界(使徒が存在しない、リリンが繁栄した世界)としてこれから栄えていくという意味なのかなと捉えた。




とりいそぎだから、思いついたらまた書き加えていく。




エヴァは終わる。終わるが、私たちのリアルは続く。私の人生にずっとエヴァは寄り添ってくれるし、変わらない私のつまらない生活を肯定してくれる。人間と関わることが怖い私に逃げるなと伝えてくれる。生命の尊さを教えてくれる。
改めて、さようなら、すべてのエヴァンゲリオン庵野監督、そしてエヴァをつくってくださったすべての方に、ありがとうございました。

それでも音楽を好きでいたい


鬱が寛解して1年ほど経って、身体的なしんどさや、自殺衝動はほとんどなくなった。
幻聴もなくなったし泣かなくなったし、笑える。

けど、別に性格が明るくなるわけでもない。社会に適合できるわけでもなく、相変わらず人間キモ……と他者と関わらず、好きなことも楽しいこともやりたいこともなく、ただ自殺するという行為のハードルを超えるほどの衝動が湧かずにだらだら過ごしている。惰性。なんとなくネットサーフィンしたりyoutube見たりして寿命こないかな〜みたいな。何かを考えると瞬時に辛くなってしまうから、自然と考えないようにする癖がついてしまった。

そういうわけでほとんど本も読まず、音楽も聴けず、ギターもベースも触らずに生きてる。…………………それが、本当に気持ち悪いんだ。

物心ついたときから活字中毒だったし、鬱になる前は本を読まない自分なんて想像つかなかった。それに初めて自分で選んで始めたのはギターを弾くことだ。鬱になってからも音楽に命をつなげられていた過去から考えたら、今の状況はありえない。焦ってる。何も感じられない自分に。これはいわゆるアイデンティティの崩壊というやつだ。

鬱は寛解したはずなのに、なんでできないんだろう…………。散々考えて出た結論は、実は大して好きじゃなかったんじゃないか。って。
だって、世間では毎日ギター触って、毎日本を読んで、毎日文章を作ったり歌をつくったり、それをしないと生きてけないみたいな人が尊敬されるような結果を出す。つまり、私はクソほどの凡人だから怠惰には勝てないんじゃないか?と結論を出して、もうおれは負けだ〜〜と怠惰に屈服している。好きもやりたいも、怠惰に勝てない人類が存在する。

そうやって諦めつつやっぱり音楽でどきどきしていた頃に戻りたいし、もっと本を読んで自分の思考を活字に残しておきたかった。そういうちょびっとの欲が自分の中に残ってる。ちょびっとの、まともな人間になりたい欲で無理やり音楽を聴いて、無理やり本を読んで、感情を捻り出そうとしてみたり。
でも無理なんだな〜〜〜。昔みたいにわくわくしたり、自分も歌いたい、弾きたい、書きたい、そういう生き生きとした感情に火が灯らない。音楽も読書もない自分に何があるっていうんだろう。なんにもない。ほんとは最初からなんにもなかったのかも。わからない。

生きた人間になりたい。それでも音楽を好きでいたい。音楽を好きな私でありたい。歪んでるかな。

花束みたいな恋をした、観た

端的に説明すると、たまたま偶然出会った男女が、趣味が合って仲良くなって恋をして、お付き合いして、環境が変わっていくごとに価値観もズレていってお別れした。それだけのことで、特別なことはなんにもない。多くの人が経験して、忘れていくような。何にもないのに、心に突き刺さって反芻してしまう。
そういう映画だった。

はじめたての恋って、さらに自分が大切にしてるものをわかってくれる人との恋って、本当にきらきらしている。それこそ、摘みたてのお花みたいにみずみずしくてむせかえる豊かな香りがするような。
絹と麦は、別に最初から恋愛観や人生観の足並みが揃ってるわけではなかった。ただ、好んでいる小説や、映画や、漫画や、そのなかで大切にしてきた感性が似通っていただけで。若い頃って、好きなものが被れば被るほど運命を感じるし、おんなじようにこれが好きなんだから自分自身と似てる。って思ってしまうよね。それほど、エンタメに対しての盲信がある。
そのほうが、2人だけの終わりのあるパーティーをする分には、卓は盛り上がるだろう。好きな歌詞。好きな台詞。あの日あのときのライブのチケット。運命的な要素。でも、パーティーを終えて2人で生活を続けていくとなると、好きな作家が同じことより、トイレットペーパーがダブルかシングルか、そんなどうでも良さそうなことのほうがむしろ重要だったりもする。

付き合ってすぐの頃から、絹は「恋とはいつか終わるものだ」と考えていた。対して麦は、一緒に居続けることを一番にして、自身を変えることも厭わなかった。最初から少しずつズレがあったのだ。そして、時間が経ってお互い就職して、同じように変わっていければよかったのに、そうはならなかった。
麦は夢があって、自分の才能を信じたくてがんばっていたけれど、絹はそれがなかった。自分の作品を認めてもらえない苦しみも、"芸術活動"のなかで平然と行われている最低な行為も、夢を折るには十分な要素があったことが絹にはわからないまま、麦も絹に伝えないまま。絹は絹で、男の友情の裏にある女性にしか見えない嫌な部分を、麦に伝えないまま。
2人は日ごとに大きくなっていくそのズレを話し合うことですり合わせずに、なんとなく、なあなあで、その日を穏やかに過ごすことで有耶無耶にした。運命感って、恋愛を盛り上げるには最高のスパイスになるけれど、一緒に居るための努力とは正反対の場所にある。はじめ会ったとき、いくらお揃いのスニーカーを履いていても、昔から疑問に思っていたことが完全に一致していても、2人は以心伝心ではなくて、話さなければ伝わらない。違っている部分のほうが遥かに多いのに。 今村夏子のピクニックでたとえ感動する2人だとしても、わかりあえないことなんていくらでもあるのだ。
物語の後半、麦が強い口調で意見を言うと、絹は決まって逡巡したあと、「そうだね。確かにその通りだね」と同意する。言い争いをしても、心にもないごめんねで場を濁して、無理に出した明るい声で、解りあうことよりも今現在なんとなく穏やかにいられることを選択する。
一緒に暮らして、仕事もしていて、家でも難しい顔して考え込みたくない。疲れた体を引きずって帰って来て、そこでまで言い争いをしたくない。疲れた顔して帰ってきた人に、喧嘩をふっかけたくないし、上手い言い方も見つからないし。ここで笑ってお茶を入れて、空気を変えれば今日もまた、何事もなかったようにベッドで2人眠れるのだから。

埋めようのない亀裂が見過ごせなくなった頃、2人は別れることにする。はじめは麦も、楽しかった頃の思い出があるからこそ、それが惜しいからこそ結婚しようと考える。麦にとって1番は絹と一緒に過ごすことで、そのためならどうにでもできると。けれど、ひとつのきっかけで、花束みたいに美しく、みずみずしかった恋のひとつ一つの記憶を惜しむからこそ、2人はやっぱり別れることを決断する。きれいだった花を惜しんで、ありがとうという気持ちで水を変えて、また違う花を花瓶に挿すように。2人は恋を終わりにした。

そうして、家のこと、家具のこと、飼ってるペットのこと。別れてからの2人はむしろ楽しく、仲良く、億劫なすべてを片づけていく。こんなに笑い合えるなら、別れなきゃよかったのに。こっちがそう声をかけたくなるほど楽しげに、明るく。でもそれは「前に付き合ってた他人」だからできること。もう他人だから、昔と違う価値観を見せられても笑って流せる。もう他人だから、あのとき浮気してたの?なんて笑って聞ける。でも、「昔、付き合ってた」他人だから次会ったときはなんの言葉も交わさずに、ただ昔を懐かしむことしかできない。どんなに趣味が合ってつもり積もった昔話があったとしても、2人は友達じゃなくて他人だから。

これ、私たちのことじゃん。今現在生きてる人たちにそう思ってもらうことに極振りしてるような映画だった。これ、あの頃の私たちじゃん。これ、今の私たちだけど、これからどうなるんだろう。これ、今の私だけど、これからどんな出会いがあるんだろう。どこまでもありふれているからこそ、心に突き刺さる、そういう映画だった。

もうすぐ大丈夫になる

 私は友だちがいない。
こんなふうに書くとほんとうに恥ずかしい。23歳にもなって友だちがうんぬんとか恥ずかしい。でも私はほんとにほんとに友だちができない。そしてそれをずーっとコンプレックスに思って生きてきた。
思えば小学校高学年くらいの頃からすでに陰キャ属性でスクールカーストは底辺だったし、友だちもかろうじて数人、ひとりぼっちにならない程度に同じクラスに1人だけくらいの割合でしかいなかった。中学も同じ。しかも、その交友関係が毎回長く続かないですぐ途切れてしまう。だから幼馴染で今もめちゃくちゃ遊ぶ!みたいな、地元の友だちが1人もいない。
極めつけは大学で、サークルに4年間入りっぱなしで合宿とかも行ってたくせにほんとうに友だちができなかった。卒業してからも連絡をとり続けてるのはほんの1人だけ。たぶんもうサークルの人間からは私の存在とか忘れられてるとおもう。いま現在、かろうじて片手に収まる程度に連絡をとってくれる人はいるけど、はたしてそれはいつまで続くんだろう。それはわからない。
 だいたい、友だちができないのなんて本人のコミュニケーション能力や行動力の問題だろなんて思われるだろうが、実際、なんで友達できないんだろう……と考えると本気で自分に理由が思いついてしまうから最悪だ。まず、根暗すぎて面白いことが言えない。すぐ自虐するしテンションを上げることができない。ふざけたり意味のないことを言って盛り上がることもできない。暗いから話しづらいとおもう。あと、テレビも見ないし流行が分からないから話のネタがない。筆不精で自分から連絡を取ることはしない。ちなみにこれは自分が嫌われてるという前提で人と関わってしまうから気軽に遊びとか飲みに誘ったりできないだけなんだけど、周りから見たら単に付き合い悪いだけにうつるだろう。思いついたことを羅列しただけでもわりと最悪すぎて自分でもこんなやつと絶対友達になりたくないな……と思った。しょうがない。こんな人間なので、友だちができなくとも。
 しかし、それを直そうと奮起したことがあった。私は人間関係をうまく築けないことから逃げてきた。それを反省して、大学ではサークルに入ってがんばって飲みにも参加したし、がんばって流行をつかもうとして大学生っぽい格好をして、恋愛の話とかして、とにかく金を使い果たして人と関わった。笑ったし、ふざけたし、お酒を飲んだし、自分なりに友だちをつくろうとした。向いてないことをがんばったってこともあるのか、鬱になって全然うまくいかなかった時期もあるけど結局サークルの幹部にもなって、いわゆる中心のメンツとして最後のほうは全部の行事に参加した。いろんな人と2人きりで飲みに行ったし、電話もしたし、深い真面目な話もした。同性とも異性とも。たくさん思い出ができた。
 でも、結局友だちはできなかった。サークルの行事で会う、ただそれだけで終わった。みんなが遊んでる時、自分は誘われないし、みんなが飲みに行ってる時、それを私は知らない。インスタのストーリーや後日のみんなの話で知る。みじめだ。(爆笑)(爆笑)って感じ。友だちができないのは行動力がないからとか、自分から働きかけないからとか、そういう理屈をねじ曲げるほど私は人に好かれないんだなぁ、ということを身に染みて染みて痛いくらい学習した。あの頃、周りの人は私がどう見えていたんだろう。陰キャががんばってて痛々しく恥ずかしい感じになってたのかな。みじめだな。でも、冷静に考えれば、私がその共同体に適合する性格やキャラクターじゃなかっただけで、少なからず友達がいないわけじゃないし、世界は広いんだからもうちょっとがんばればたくさん仲良くしてくれる人が見つかるのかもしれない。ていうか、たぶんそうだと思う。いくつかの場所で適性がなかったからと言って全てがだめなわけじゃない。わかってる。でも、そのとき一緒にいてくれたみんなはやさしかったんだよ。いい子たちだった。むかつくところや受け入れられない部分もあったけど、一緒にいて楽しかった。それに、私に好意を持ってるような顔をしてたよ。冗談で笑ってくれるたびにうれしかった。楽しい時間を共有できたと思ってた。でも、そう思ってるのはほんとうは私だけで、周りは私がいなくてもよくて、なんならいないほうがよくて、私がその場にいるサークルのメンバーだからというただそれだけの理由で輪に入れてくれていた。たぶん、笑ってくれていたのは良い人たちだからこそのやさしさとか、その場のノリなんだとおもう。そのやさしさと自分の勘違いがみじめで、こわい。私、みんなと友だちになれたと思ってた。そしてたぶん、友だちとか飲みに誘う誘わないとか、卒業後の関わりとかをそんなに重く捉えて考えてる、それ自体が気持ち悪いんだよね。これってモテない男がちょっと親切な女の子に好かれてると勘違いするやつと一緒だよね。私はみんなに片思いしてた。
 私はこれからずっと、当分、どんなに好意を示されても信じられないし、信じない。そのほうが誰のためでもある。私を友だちだと受け入れてくれている誰かのその仕草は、たぶんやさしさや同情や、その場のなりゆきであって、私は一緒にいたい相手ではないんだと思う。わかる。わかるよそういう人間だから私は。私はつまらない人間だとおもう。それが良いとか悪いとかではなく。それが事実で、矯正するすべを持たないことも、事実。
 友達がいない。これからもたぶんできない。でもそれでいい。それが私なんだろう。いつかこういう経験も薄れるくらい遠い記憶になる。早くそうなるように、わざと傷を開いて文字に起こしておいた。実際、社会に出て友だちがいるいないってとるにたらないことで、大したことない。だからたぶんきっともうすぐ大丈夫になる。大丈夫になったら、この文章も笑えるようになるだろう。